合理的に、でも人間的に 〜しょうもないことを大切にする

無駄に見えることが、心を支える

現代は「効率化」が至上命題のように語られます。スマートな勉強法、時短のテクニック、ムダを省く生活術──どれも私たちにとって有益な知恵です。けれども、それらを追求するあまり、ふとしたときに感じる心の空白に気づくことがあります。感情や遊び、つまり「しょうもないこと」が削ぎ落とされた結果として、豊かさが失われてしまうこともあるのです。

誰かとするたわいもない雑談、意味のないように思える寄り道、つい笑ってしまうくだらない冗談。これらはすぐに結果につながるものではありませんが、人間関係を深め、心を柔らかく保つためには不可欠です。そんな“しょうもないこと”があるからこそ、私たちは合理性を持ちながらも人間らしさを失わずにいられるのです。

「それって意味あるの?」と一蹴されがちなことにこそ、人間の余白が宿っています。意味ばかりを求めると、人はかえって疲れてしまう。非合理的なものにこそ、人の感情は宿り、心のバランスを保つ土台があるのだと知ることが、現代人には必要ではないでしょうか。

合理と非合理のバランス感覚

では、合理性を追求しながらも“しょうもないこと”を排除しすぎないためには、どうしたらよいのでしょうか。一つの鍵は「目的の再確認」にあります。つまり、今自分が目指しているのは“数字”なのか、“人”なのか。その判断を持つことで、行動の選択基準が変わってきます。

たとえば授業において、効率を重視するあまり雑談を一切排除する方針にしたとします。その結果、時間あたりの情報量は最大化されたように見えるものの、関係性はぎこちなくなり、学習の質が下がるということは起こりえます。結果として、全体的な学習パフォーマンスも下がってしまう。ここで重要なのは、「しょうもない会話」にも意味があるということを理解することです。

日常生活でも同じです。子どもが突然話し出す意味不明な空想話、大人にとってはまったく役に立たないような趣味の話、そんな会話に耳を傾けることが、信頼関係や安心感を育てます。合理性と非合理性は対立するものではなく、両者が共存することで人生のバランスが取れていくのです。

教育における“しょうもなさ”の価値

橋本塾はあくまでも学習塾。塾生の学習効果を最大化し、結果を出すことこそが使命です。私たちも合理化できるものはどんどん合理化していく主義です。しかし、それだけでは人は育ちません。授業中に発する突拍子もない一言、無駄に思える脱線や雑談──そうした“しょうもないこと”の中に、個性や関心、心の動きが現れます。

それを単なるノイズと捉えて一掃してしまうと、生身の人間としてのコミュニケーションが希薄になります。結果として、学習は効率的になっても、心は閉ざされていく。むしろ、そうした“しょうもない”瞬間にこそ、人としての豊かさが滲み出るのです。そうした人間的なやり取りこそが、信頼関係を築き、学びを深める土壌となっていくのです。

学びは情報の垂れ流しではなく、感情の動きや人とのやり取りの中で育まれます。だからこそ、どれだけテストの点数を上げるかという合理的な成果だけでなく、どれだけ一人ひとりの心に火を灯せたかという“非合理的”な視点も忘れてはいけません。

“しょうもなさ”を取り戻す

私たちが今、取り戻さなければならないのは、計算で割り切れない価値への感受性です。効率一辺倒の世の中だからこそ、「意味がないけど好きなこと」「何も生まないけど楽しいこと」に目を向けてみる。忙しい毎日のなかでほんの数分、無駄とも言える時間を味わってみる。それが結果として、心の健康や人間関係の深まりをもたらすことは少なくありません。

“しょうもないこと”をする時間を確保するのは、一見すると非生産的に感じるかもしれません。しかし、その“非生産性”が、創造性や柔軟性を育て、次のステップへのエネルギーとなるのです。好きな音楽を聞いてボーッとする時間、何の役にも立たない動画を見て笑う時間、意味もなく空を見上げる時間。こうした“しょうもなさ”は、意外にも人を前向きにし、明日の行動を軽やかにしてくれます。

合理性の中にあえて非合理な余白を持たせる。それが、人間らしく生きるということなのかもしれません。効率だけでは到達できない、心の充足を得るために──しょうもないことを、もっと大切にしていきたいものです。

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